青年海外協力隊に興味をもつきっかけになった日のこと。
「海外」という未知の世界に飛び出すきっかけになった日のこと。
この記事では、私が青年海外協力隊を志し、海外に出ていくきっかけになった出来事について、備忘録もかねて書こうと思います。
***
出会い
様々な人との出会いで価値観や考え方が変わることがある。
その多くは、「自分が選択した想定される世界で」よりも、
「偶然にも訪れた場所や、偶然にも出会った人、たまたま口にしたもの」から、
感情が揺さぶられたり、刺激を受けたりする。
私自身も、これまで「意図して選択したもの」よりも、
「たまたま偶然出会ったり口にしたもの」から、
価値観や考え方に影響を受けることが多々あった。
その中でも私の生涯に大きな変革を起こしたものが、フィリピンのストリート・チルドレンとの出会いだったのだ。
その出会いのおかげで、今、国際協力に興味を持ってその世界を生きようと格闘している。
たとえ国際開発のフィールドでなくても、世界で起こる戦争や争い、災害や社会問題を無視できない自分がいる。
その出会いが私のその後の人生に大きな意味をもたらしたことは言うまでもないことなのだ。
* 家族でフィリピン旅行にいったときのこと
中学2年、13歳のころ、家族でフィリピンに旅行に行った。
その時フィリピンはそこまで有名ではなかったけれど、セブ島などの一部のリゾート地は日本で名前が挙がるくらいには認知されていた。
当時13歳の私は「フィリピン」という国を知ることもなく、ましてや「先進国と発展途上国」という言葉も、「ストリート・チルドレン」の存在も知らなかった。
そんなフィリピンのリゾート地、セブ島に家族で行った。
当時の企画者である母の夢が、「リゾートに行くこと」だったのもあるが、
当時フィリピンは、日本で過ごすよりも物価を抑えて過ごすことができ、
日本のリゾート地に行くのと同じか、もしくはそれより安く、行くことができた国だったのも一つの理由だった。
「日本の近くにある島国で、アメリカや、中国、ヨーロッパなどの国よりは有名でない国。」
「あんまり知られていないっぽいけど、どうやら海がきれいらしい。」
出発前は、そんな感じのイメージを持っていた。
* 初めて感じた「開発途上国」の空気感
到着したのはフィリピンのマニラ空港。
飛行機を降りると、もわっとした空気。
その時感じた「異国感」を、まだ覚えている。
明るくて暑くてざわざわしている空港。でもそんな情報からはここが「開発途上国か」なんてわかりっこなかった。
フィリピン=開発途上国というイメージは、日本に帰ってから数年して社会の授業で学んでから付いた概念。
マニラ空港に着いたとき、私は「日本とは違う国に来たんだ!」というポジティブでわくわくした感情に包まれていて、ストリート・チルドレンの存在を予想することなどなかった。
ストリートチルドレンとの出会い
マニラからセブ島へは、もう一度飛行機に乗る必要がある。
市内を移動してセブ島に行く空港へ向かった。現地の方が運転をしてくれたのだった。
マニラの市内を車で移動中、たくさんの車が行きかっていた。
信号は日本よりも少なく、待ちゆくひとは、高速で走る車をくぐりぬけ、横断歩道もない道を横断していた。
。o 〇(・・・すごいなあ、なんか危ないけど大丈夫かなあ、活気はあるんだけど・・・)
という印象。
少し車を走らせるとすぐに渋滞。
そして渋滞中、減速する私たちの車のもとにたくさんの子供たちがやってきた。
彼ら彼女たちは何かを欲するように、私たちの車に近づいてきたのだった。
[ なにかをください ] という表情。
ぼろぼろの服。
自分と同じかそれより小さい子供たち。
私たちを見る強いまなざし。
目の前で何が起きているのか、全くわからなかった。
それは、生まれて初めてのできごとだった。
私は、「何が起きているの?」と父に聞いた。
父は、「ストリート・チルドレンだよ」と教えてくれた。
若いころに世界一周をしたことのある父は、すぐに何が起きているかを理解していたのだった。
「この子たちは何をしているの?」と私が聞くと
「俺らに何かください、お金をくださいっていっているんだよ」と父が応えてくれた。
父はそう説明してくれたが、若干13歳、中学生の私には、それは「はいそうですか」と簡単に頭で理解できるような光景ではなかった。
まず、この子供たちの存在に驚いていた。
そして、自分が生きてきた世界の小ささにも同時に気づかされた初めての経験となった。
父が続けて言った。
「ここにいる子たちはね、明日を生きれるかわからない子もいるんだよ。
こうしてお金とか食べ物とかもらって、生きている。お家もない子もいる。」
「私たちは何かしたほうがいいんじゃないの?お金?食べ物?」と私が聞くと
「何かをしたほうがいいとは限らない。
もちろんこういう状況になって何かをあげたくなる気持ちはわかるけど
みんながあげたらこの子たちがそれで生きていけると覚えてしまう。
何もできないのはつらいけど、優しく何かをあげることが正しいとは限らないんだよ。」
と父が説明してくれた記憶がある。
その後の車内も、私は起こったことがあまりにもショックだったので
これからバカンスに行くという目的を忘れて、ホテルに着くまでずっと考えていた。
あのとき父はそういう風に言ったけれど、
本当に何もしてあげなくてよかったのか、ずっと頭を巡った。
これからリゾート地に行く私と、出会った子供たちの違いについても考えていた。
フィリピンという国にも恐れと興味を抱いたのだった。
その日をきっかけに、自分の将来が少し変わったのを覚えている。
この出会いときっかけを忘れることなく、未来の自分に問おうと、子どもながら考えたのだった。
先進国と開発途上国ってなんだろう
今でも強く違和感を覚えているのは、私とその子供たちとの違いだった。
別に、私にこれといって何か才能があるわけではないし、世界的に優れて生まれたわけでもない。
どこかの富豪の子どもでもないし、先祖代々功績を出してきた家系でも何でもない。
ただ、私とその子たちとの違いは、生まれた環境だけだったのだ。
日本で生まれただけ。フィリピンで生まれただけ。
でも私には両親がいて、少しお金を貯めれば、たまに海外旅行や国内旅行にいく金銭的余裕があった。
一方、その子たちはもしかしたか家族も、家さえないかもしれない。
生まれた場所が違うことで、なぜこんなに差があるのだろうか。
この差とは、いったい何なのか。
ましてや、私はフィリピンと日本の経済的格差があることで、このバカンスに来れている。
当時、フィリピンの物価は日本の物価の3分の1以下だったからだ。
生まれた場所、生まれた国で、生きる道、人生が決まっていいのだろうか。
そんな不公平を私は知らずに生きていいのだろうか。
もっと知らないといけない、自分にできることがあるのなら、その道を選んでみたい。
この子たちのために何かしたい。
そう強く思って以降、国際協力にずっと興味を持ち続けているのだ。
***
私の国際協力への関わり。これまでと、これから
中学2年生の時のフィリピンでの出会いから数か月後、
社会の授業で「青年海外協力隊」の話を聞きました。
どうやら、多くの日本の青年が、フィリピンなどの海外の国に行き、井戸を掘ったり学校で先生をやっているとのこと。その時の例がフィリピンの青年海外協力隊の例だったので、自分のフィリピンへの関心と交わり、青年海外協力隊というものに、いつかチャンスがあればなりたい!と思うようになりました。
またそのあとにも、中学校ではスモーキーマウンテンと呼ばれるフィリピンのごみの山の話を聞く機会があり、そこでも自分のフィリピンでの体験がリンクしました。
高校ではボランティア活動ができるような高校に入り、
大学へは、苦手な英語を得意とできるような学部・大学を選んで受験しました。
大学4年間、グローバル社会学、文化人類学、開発学、トランスナショナル論など、様々な角度から世界を見る機会を経ました。いつか、協力隊になるために、国際社会でがんばれる大人になるために、その学びの経験を活かして行きたいと思うようになりました。
社会に出た後、ようやく26歳のタイミングで青年海外協力隊としてペルーへ。国際協力の世界の第一歩を実現しました。
今は日本で、別の業界で働いているけれど、いつかまた、国際協力、国際開発の現場へのチャレンジをしてみたいと思っています。長い目でみたチャレンジをしていきます。
そしてこのブログも一つのチャレンジ。これまでの国際協力、国際交流の経験について発信をしていきたいと考えています。